大正天皇の婚儀からはじまった神前結婚式は、戦前には「簡便な結婚式」の代名詞だった。それがここまで演出に凝るようになったのは、披露宴が独自の発展をとげたことによる。葬式もまた劇場型に変わった。高度成長期の中心は自宅葬だった。自宅で通夜・葬儀・告別式を行い、寺院での葬儀は省略して、霊柩車で火葬場へ直行する。自宅葬の中心的なイベントは一般会葬者が焼香する告別式だ。それを契機に主役の座を射止めたのは祭壇である。一九六〇年代後半から、祭壇はしだいに大型化、奢侈化していくのである。白布ないし金欄の布をかけた簡素な「布かけ祭壇」から、透かし彫りなどをほどこした「白木祭壇」へ。二段・三段から、天井にまで届くような五段・七段式へ。蛍光灯のついた煌々と輝く祭壇。宮型や寺院型の飾り(飾り輿)がついたゴージャスな祭壇。「見せる葬儀」を象徴するのは、以前は祭壇の前に安置されていた柩が、祭壇の大型化とともに後ろに引っ込められたことだろう。ドライアイスの普及前には腐臭の問題があったのだともいわれるが、中央に陣取った祭壇が葬儀のシンボルと化す。中江兆民の葬儀からはじまった「告別式」は、戦前には「簡素な葬儀」の代名詞だった。それがいつしか肥大化し、自宅玄関前に大きな花環(関西ではしきみ)を並べ、運動会みたいなデッドを張って会葬者の受付けをするほど大がかりなイベントに発展する。そして、結婚式も葬式も、さらにアレンジを重ねつつ、こんな感じで八〇年代の終わり頃まで続くのだ。
葬儀の正式な祭壇に納棺して遺体を置く以前に、最初に遺体に行われるのが枕飾り。仏教では釈迦の涅槃の姿にならって遺体の顔に白い布をかぶせて北枕か西枕に寝かせ、そのそばに供養の飾りをするものだ。もちろん枕飾りをする前に、遺体は湯灌といって、全身を拭いて清める作業も、死に化粧もすませ、死に装束をまとっている。死に装束は昔ながらの白い経帷子ではなく、故人の好んだ現代風の装いが多くなっている。枕飾りは小さい机を白い布で覆い、上に線香と線香立て、ろうそく、鈴、茶碗にごはんを盛って箸を突き立てた一膳めし、一輪ざしなどを置く。団子が置かれることもある。遺体の枕元には「逆さ屏風」にした枕屏風も置かれ、遺体の胸には魔除けとして剃刀か小刀を抱かせる。このとき、刃は顔と反対側になるように置かなければならない。ここで僧侶が呼ばれ読経が行われるが、これが枕経といわれるもの。戒名はこのあとつけられることが多い。神式では、遺体はやはり北枕に寝かせ、白木の八足の台に、榊と洗い米、塩、水、神酒、供物などとともに灯明が置かれ、ちょうど神棚と同じような飾りつけをする。供物は故人の好物なら肉でも魚でもよく、ここが団子だけという仏式と異なる点だ。
他社を訪問する場合、受付があればまず立ち寄り、自社名と名前、約束時間などを伝えて、取り次いでもらう。受け付けをする前には髪型の乱れや肩のフケ、足元の汚れなど身だしなみを整えること。案内されて部屋に通されても、椅子をすすめられていない場合や、明らかに相手がすぐに来るとわかる場合は、座らず立って待つ。取り次いでくれたり、お茶を出してくれたりした人に「ありがとうございます」の一言を忘れずに。「おかけになってお待ちください」と声をかけられたら座って待っていていいが、すぐに立てるよう、あまり深々と腰かけないこと。相手が現れたら、素早く立ってあいさつを。机をはさんだレイアウトでも、名刺交換をするときは場所を移動し、立って向かい合って行う。